杉田庄一
大正13年(1924)7月1日安塚村(現浦川原区)に生まれる。15歳で海軍に入隊し、予科連を経て航空搭乗員としてラバウル航空戦などを歴戦。戦争末期、技量優秀として第三四三海軍航空隊員に選ばれ、日本本土防空の任にあたる。2年間での公式撃墜数は個人撃墜70機 協同撃墜40機で空戦の神様と呼ばれた。昭和20年(1945)4月15日、鹿児島県鹿屋基地にて出撃直後に被弾戦死する。20歳であった。部下を愛し上官から厚く信頼されたことから戦死後に全軍布告感状が出された。
杉田庄一は、山本五十六司令長官が撃墜されたときの護衛機6機のうちの一人の搭乗員だった。その経緯は「六機の護衛戦闘機」という本にまとめられている。また、ピストルをもって上司に特攻志願をしたとか初陣でB17爆撃機に体当たり撃墜をしたとかエピソードにことかかない。映画「零戦燃ゆ」の主人公のモデルとなったり、本や漫画などで取り上げられたりすることも多い。昨年も南海放送の終戦75年特別企画ラジオドラマ「紫電改 君がくれた紫のマフラー」でエピソードが放送された。また、コミック「イブニング」で現在連載中の「紫電改343」(須本壮一)でも取り上げられている。
343空
日本海軍第三四三海軍航空隊は、太平洋戦争末期に優秀な搭乗員を集めて日本本土防空のために四国松山で結成された部隊。敗色濃厚で連日爆撃を受ける中を戦闘機紫電改を用いて終戦まで戦い続けたことで知られる。
WEBマガジン「杉田庄一物語」
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このWEBマガジンをもとに書籍「杉田庄一の太平洋戦争」出版企画をしています。
杉田庄一物語(note)
- 序文
- 第一部「小蒲生田」
- 杉田、豪雪地に生まれる
- 杉田の幼少期
- 中保倉尋常小学校
- 下保倉尋常高等小学校
- 安塚農学校
- 予科練志願
- バスに乗り遅れるな
- 第二部「開戦」
- 海兵団入団
- 予科練入隊
- 予科練の一日
- 飛行操縦専修練習生
- 緊迫する情勢
- 延長教育(実用機操縦課程)
- 太平洋戦争開戦
- 日本軍南洋方面進出
- シンガポール陥落
- 第三部「ミッドウェイ海戦」
- 第六海軍航空隊
- 東京初空襲
- 第二段作戦
- 珊瑚海海戦
- ミッドウェイ海戦
- アリューシャン作戦
- 捲土重来、内地へ
- ガダルカナル島上陸
- ガダルカナル島攻防戦はじまる
- 第一次ソロモン海戦
- 第二次ソロモン海戦
- 六空先遣隊ラバウル進出
- 日本軍ガダルカナル島総攻撃
- 杉田初出撃
- 第四部「ガダルカナル島攻防戦」
- 米軍司令官ニミッツ前線視察
- ガダルカナル島航空戦
- 六空主力隊合流、ブカ島進出
- ・・・杉田庄一物語 タイトル画について
杉田庄一に関する資料(note)
- 掩体壕(松山市)
- 「杉田庄一顕彰碑」<浦川原区>
- 「秘めたる空戦」(松本良男/幾瀬勝琳)
- 「ラバウルの真実」(吉田一彦)
- 「蒼空の航跡」(久山忍)
- 「海軍少年飛行兵」(朝日新聞社)…その3 入隊するまで
- 「海軍少年飛行兵」(朝日新聞社)…その2 序文
- 「海軍少年飛行兵」(朝日新聞社)…その1 グラビア写真
- 「私は山本長官機の直掩だった」(柳谷謙治)
- 「戦艦大和ノ最期」(吉田満)大和に攻撃された杉田区隊?
- 「最後の紫電改パイロット」②編隊飛行訓練
- 「最後の紫電改パイロット」①出会い
- 「最後の撃墜王 紫電改戦闘機隊長 菅野直の生涯」(碇義朗)
- 「宮崎勇氏が語る杉田庄一」
- 「島川正明氏が語る杉田庄一」
- 「本田稔氏が語る杉田庄一」
- 「小福田皓文氏が語る杉田庄一」
- 「奥宮正武氏が語る杉田庄一」
- 「源田実氏の語る杉田庄一」
- 「杉野計雄氏の語る杉田庄一」
- Flavio Silverstriさんからのメール
- 昭和17年4月6日「海軍第六航空隊開隊」
- 昭和16年11月29日〜17年3月31日「大分海軍航空隊」
- 昭和16年4月28日〜16年11月29日「第十七期飛行練習生」
- 昭和15年10月〜16年4月「第三期丙種予科練習生」
- 昭和15年6月「海兵団時代」
- 戦後の顛末
- 昭和20年8月「菅野直大尉死す」
- 昭和20年5〜7月「大分基地の343空」
- 昭和20年「343空国分基地へ移動」
- 昭和20年4月15日、杉田死す
- 昭和20年4月12日、『喜界島空戦』
- 昭和20年3月19日、『九州沖航空戦』三四三空出動その2
- 昭和20年3月19日、『九州沖航空戦』三四三空出動その1
- 昭和20年3月、『紫のマフラー』
- 昭和19年12月〜20年2月、『紫電改』での訓練
- 昭和19年12月、343空戦闘301隊(新撰組)誕生
- 昭和19年11月中旬、特攻に行かせてください!
- 昭和19年10月特攻隊直掩任務
- 昭和19年10月内地で二週間
- 昭和19年10月フィリピン沖海戦、しかし菅野・杉田は内地に戻る
- 昭和19年8月〜9月ダバオに一航艦再建!?
- 昭和19年7月〜ヤップ島での菅野分隊
- 昭和19年7月〜ダバオ「201航空隊編成」
- 昭和19年グアム島脱出
- 昭和19年マリアナ沖海戦
- 昭和19年5月ペリリュー島進出〜6月『渾作戦』
- 昭和19年4月25日「あんなもん空戦じゃない」
- 昭和19年4月、編隊飛行訓練
- 笠井智一氏、「杉田との出会い」
- 昭和18年8月〜19年4月の戦況
- 昭和19年1〜3月「大村航空隊と坂井三郎」
- 昭和18年12月「故郷に帰る」
- 昭和18年9月「内地帰還」
- 昭和18年8月26日「被弾、落下傘降下、火傷」
- 昭和18年8月「ブイン基地での生活」
- 昭和18年8月「コロンバンガラ島の戦い」
- 昭和18年7月中旬〜下旬「羽切松雄飛曹長204空へ」
- 昭和18年7月初旬「進藤三郎少佐着任・・・マラリヤに倒れる」
- 昭和18年7月「レンドバ島の攻防」
- 昭和18年6月16日「宮野善治郎死す」
- 昭和18年6月16日「ルンガ沖航空戦」
- 昭和18年6月12日第二次「ソ」作戦
- 昭和18年6月7日「ソ」作戦・爆装零戦の戦い
- 昭和18年6月3日「編隊長デビュー」
- 昭和18年5月「嵐の前の静けさ?」
- 昭和18年4月20日「海軍甲事件の緘口令、そして疑心暗鬼」
- 昭和18年4月18日「海軍甲事件直後の緘口令・・・」
- 昭和18年4月18日「海軍甲事件の搭乗割り」
- 昭和18年4月「い号作戦」と204空
- 昭和18年3月204空ラバウルにもどる
- 昭和18年空戦の様相がかわる
- 昭和18年1月〜2月ガダルカナル消耗戦
- 昭和17年12月B17へ体当たり
- 昭和17年11月ブイン進出
- 昭和17年10月ラバウルへ
- 昭和19年9月<ダバオ誤報事件から特攻隊編成へ>
- 昭和19年7月<ヤップ島での戦い>
- 昭和19年7月10日「菅野直隊長あらわる」
- 杉昭和19年5月<グアム島での戦い>
- 昭和19年4月<杉田との出会い>
- 「強風〜紫電〜紫電改」その3
- 「強風〜紫電〜紫電改」その2
- 「強風〜紫電〜紫電改」その1
- 宮崎勇さんの記録その5<苦戦の中の零戦>
- <鴻農周策のこと>
- <搭乗員の速成教育>
- <海軍の階級>
- 令和3年7月24日〜松山飛行隊跡地に行ってみた
- <搭乗員への志願>
- 昭和20年3月から4月〜「三四三空隊誌」その4
- 昭和20年3月19日から4月15日〜「三四三空隊誌」その3
- 昭和20年3月〜「三四三空隊誌」その2
- 令和3年7月24日〜紫電改展示会「ニッコリ笑えば必ず墜とす」
- 昭和52年〜「三四三空隊誌」その1
- 令和3年7月23日〜紫電改記念館に行ってきた
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件8
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件7
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件6
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件5
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件4
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件3
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件2
- 昭和18年4月18日〜海軍甲事件1
- 「六機の護衛戦闘機」での違和感
- 令和3年〜生家跡地(小蒲生田)に行ってきた
- 昭和初期〜安塚町史から
- 大正13年7月1日〜浦川原村史から
- 杉田庄一顕彰碑建立のためのクラウドファンディング
- 「紫電改のタカ」と教員人生と「杉田庄一」
- 4月18日は山本五十六の撃墜された日
- 4月15日は、杉田庄一の命日
杉田庄一に関するパンフレット
杉田庄一
大正13年(1924)7月1日安塚村(現浦川原区)に生まれる。15歳で海軍に入隊し、予科連を経て航空搭乗員としてラバウル航空戦などを歴戦。戦争末期、技量優秀として第三四三海軍航空隊員に選ばれ、日本本土防空の任にあたる。2年間での公式撃墜数は個人撃墜70機 協同撃墜40機で空戦の神様と呼ばれた。昭和20年(1945)4月15日、鹿児島県鹿屋基地にて出撃直後に被弾戦死する。20歳であった。部下を愛し上官から厚く信頼されたことから戦死後に全軍布告感状が出された。